An excerpt from 『水滴』 by 目取真 俊. It’s about 徳正 (とくしょう) whose right leg one day in June swells up like a melon. A liquid drips from a split in his big toe. Nightly the ghosts of soldiers from the war fifty years ago appear at his bedside and drink from it. This bit is about his friend 石嶺 (いしみね).

耳を押さえることも布団に潜り込むこともできず、うとうとしかけては何度も起こされ、遠くで五時の時報を聞いたと思った時、目の前に石嶺が立っていた。部屋には二人だけだった。今までうつむいたままだった石嶺、顔を上げて徳正を見つめている。頭をもたげて何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。石嶺は頭を下げるとべッドのパイプを握りしめ、右に傾く体を支えてゆっくりとしゃがんだ。ほとんど水の出なくなった親指を口に含んでやさしくねぶる。

最後に別れた夜のことが目に浮かんだ。夕方、水を汲みに出た徳正達を艦砲の至近弾が襲った。一緒にいた三名の女子学生達は即死状態だった。石嶺も破片で腹を裂かれ、どうにか動けるのは徳正だけだった。呻きながら腹を押さえている石嶺の掌から、豚や山羊を解体する時に目にした物と同じ物がはみ出していた。巻脚絆を解いて石嶺の腹に巻き、壕まで引きずってきた。戻るとすぐに食料や水を求める兵隊達の罵声を浴びた。入口の近くに寝かせたまま、急いで水を汲みに行かなければならなかった。

夜になって壕の中が騒がしくなった。伝令から移動命令が伝えられ、動ける者は持てるだけの荷物を持って、南部に移動することが命じられていた。置いていかれるのを察知して助けを求める兵隊達の声と、叱りつける下士官の怒号が、淀んだ闇の中で絡み合う。荷物をまとめる音や降り出した雨の音がそれに混じり合って、石嶺の横に座っている徳正の頭に反響した。何か大切なことを考えようとしているのに、いつまでもそれをまとめることができなかった。壕は琉球石灰岩の小高い森の中腹にあった。降りしきる雨は木々の葉にあたって細かい霧になり、人口近くの岩壁のくぼみに隠れた石嶺と徳正の体に沁み込んだ。

壕の奥から現れた二人の斥候兵が、銃を手に森の斜面を素早く下りて行く。移動が始まったようだった。黒い塊が闇の中から盛り上がって人間の形になると、次々と斜面を下りていく。徳正は石嶺の体を抱いて壁に身を寄せ、息をひそめてその姿を見送った。まともに歩ける兵隊の方が少なかった。肩を貸し合い、杖にすがった兵隊達は、雨でぬかるむ斜面を他の者を巻き添えにしながら滑り落ち、罵り合う。静かにしろ、という押し殺した声が走る。担架で仲間を運んでいく女子学徒隊の中から一つの影が近づいてきた。

「石嶺さんの具合はどうですか」

同じ村の出身だと知ってから、顔を合わせると短い会話を交わすようになった宮城セツだった。岩壁にもたれて細い息を漏らしている石嶺は、支えてやらなければ崩れ落ちてしまう状態だった。徳正は首を振った。セツもそれ以上訊ねようとしなかった。荒れた指が手首を強く握りしめる。掌に水筒と紙袋が押しつけられた。返そうとする徳正の手を押し戻し、セツは顔を近づけた。

「私達は糸満の外科壕に向かうから、必ず後を追ってきて」

徳正の肩をつかんでセツは強い口調で言った。石嶺の顔にそっと手を伸ばして別れを告げると、髪を二つに結んだ後ろ姿が、崖を滑り降りて木の陰に消えた。どれだけの間そこに座り込んでいたのか分からなかった。目の前を移動していく兵隊の姿はしだいに低く歪んでいった。前かがみに杖にすがっていたのが四ん這いになり、腹這いになって、手足をもがれた両棲類のような影が身をくねらせて進んでいく。置き去りにされることへの恨みや怒声、泣き声が、泥を這いずりまわる音に混じる。崖を滑り落ち、その下で動けなくなった兵達のうめき声を、徳正はぼんやり聞いた。

トクショウ……。

かすかにそう呼ばれたような気がした。

「石嶺」

耳元で呼んだが返事はなかった。頬を近づけるとかすかな呼吸があった。徳正は体をずらし石嶺の体を横にした。腹を縛った巻脚絆がよじれて小さな音を立てた。セツの渡してくれた紙包みから乾パンを取り出して手に握らせる。水筒の水を掌に受けて、白い歯ののぞく唇の間にこぼした。あふれた水が頬を伝わるのを目にした瞬間、徳正は我慢できなくなって、水筒に口をつけ、むさぼるように水を飲んだ。息をついた時、水筒は空になっていた。水の粒子がガラスの粉末のように痛みを与えながら全身に広がっていく。徳正はひざまずいて、横たわる石嶺の姿を眺めた。闇と泥水がゆっくりと浸透し、もう起こすこともできないほど重くなったように見える。壕の中の声が聞こえなくなっていた。空の水筒を腰のあたりに置いた。

「赦してとらせよ、石嶺…..」

徳正は斜面を滑り降り、木々の枝に顔を叩かれながら、森を駆け抜けた。月明りに白い石灰岩の道が浮かび、倒れた兵が黒い貝のように見えた。鱗が一枚一枚剥がれ落ちていく黒い蛇の尾が道の向こうに見える。その後を追って走っていた徳正は、死んでいると思った兵の伸ばした手に引っ掛かって倒れた。這ってくる兵の手を払って立ち上がろうとした時、右の足首に痛みが走った。置き去りにされる恐怖が込み上げてくる。徳正は足を引きずって走り続けた。ふいに背後で炸裂音が響いた。森の中腹に立て続けに閃光が走る。米軍に発見されることを恐れ、徳正は走りながら、手榴弾で自決した兵士を罵った。

四日後、徳正は島の最南端の摩文仁海岸で米軍の捕虜となった。気を失って波打ち際を漂っているところを救われたのだった。それ以来、収容所でも、村に帰ってからも、誰かにふいに、石嶺を壕に置き去りにしてきたことを咎められはしないか、と恐れる日が続いた。村に帰って一週間ほど経った時、石嶺の母が訪ねてきた。米軍支給の詰や芋を持ってきて、身内のことのように無事を喜んでくれる姿を正視できなかった。逃げる途中ではぐれて、その後の行方は知らない、と徳正は嘘をついた。それから数年間、毎日の生活に追われることで、石嶺の記憶を消し去ろうと努めた。

防衛隊にとられた父の宗徳は行方が知れないままだった。祖父と二人の妹は収容所から解放されてまもなく、相次いでマラリアで死んでいた。再会できたのは祖母と母、そしてまだ乳飲み子の弟だけだった。元々体の弱かった母のトミは乳が出ず、出来物だらけの頭にいつも蠅がたかっていた弟は、結局一歳にならないうちに死んだ。ほとんど起きることのできないトミの面倒を祖母に任せて、まだ十八の徳正は年齢を偽り、昼は隣町にできた米軍港の荷揚げ作業に出、早朝と夜は畑に出る毎日を繰り返した。二年後トミが死に、祖母と二人きりになった。何度か村を出て、基地建設で賑わっていた中部で日雇い労務をしたり、那覇で塗装業をやってみたりしたが長続きしなかった。二十五の時に村に帰って来てからは、米軍機の燃料タンクを利用して手漕ぎの船を作り、畑の合間に素潜りの漁をして金を稼いだ。二十七の時、魚商をしているウシと知り合って一緒になった。祖母の喜びようはなかった。二つ上のウシは気が強い分、人情持ちだったから、祖母が亡くなるまでの三年間、実の親以上に尽くしてくれた。一人きりになると、徳正の酒の量が増え、博打にまで手を出すようになった。ウシは子供ができないことが原因かと思い、ひそかに病院に通った。

しかし、徳正が酒浸りになるようになった理由は他にあった。祖母の四十九日の席で、村の老女たちの会話から、徳正は宮城セツのことを偶然知った。たどり着いた時、糸満の外科壕は米軍の馬乗り攻撃を受けてすでに爆破されていた。以後、宮城セツの消息はつかめないまま、徳正は島の最南端の摩文仁海岸に追い詰められていった。実は、セツたちも一日前にほとんど同じ道を通って摩文仁海岸に着いていた。そして、徳正が爆風を受けて気を失い、漂っていた波打ち際から二百メートルも離れていない岩場で、同僚の女子学生五名と手榴弾で自決を遂げていたのだった。

親戚や客が帰った後、徳正は独り浜に降りた。水筒と乾パンを渡し、自分の肩に手を置いたセツの顔が浮かんだ。悲しみとそれ以上の怒りが湧いてきて、セツを死に追いやった連中を打ち殺したかった。同時に、自分の中に、これで石嶺のことを知る者はいない、という安堵の気持ちがあるのを認めずにはおれなかった。声を上げて泣きたかったが、涙は出なかった。酒の量が一気に増えたのはそれからだった。以来、石嶺のこともセツのことも記憶の底に封じ込めて生きてきたはずだった。

徳正の足をいたわるように掌で足首を包み、石嶺は一心に水を飲んでいる。涼しい風が部屋に吹き込む。窓の外に海の彼方から生まれる光の気配がある。いつもなら、とっくに姿を消している時刻だった。はだけた寝間着の間から酒でぶよぶよになった腹が見える。臍のまわりだけ毛の生えたその生白い腹と、冬瓜のように腫れた右足の醜さ。自分がこれから急速に老いていくのが分かった。べッドに寝たまま、五十年余ごまかしてきた記憶と死ぬまで向かい合い続けねばならないことが恐かった。

「イシミネよ、赦してとらせ…..」

土気色だった石嶺の顔に赤みが差し、唇にも艶が戻っている。怯えや自己嫌悪のなかでも茎は立ち、傷口をくじる舌の感触に徳正は小さな声を漏らして精を放った。唇が離れた。人差し指で軽く口を拭い、立ち上がった石嶺は、十七歳のままだった。正面から見つめる睫の長い目にも、肉の薄い頬にも、朱色の唇にも微笑みが浮かんでいる。ふいに怒りが湧いた。

「この五十年の哀れ、お前が分かるか」
石嶺は笑みを浮かべて徳正を見つめるだけだった。起き上がろうともがく徳正に、石嶺は小さくうなずいた。

「ありがとう。やっと渇きがとれたよ」

きれいな標準語でそう言うと、石嶺は笑みを抑えて敬礼し、深々と頭を下げた。壁に消えるまで、石嶺は二度と徳正を見ようとはしなかった。

by rantouda